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福岡地方裁判所 昭和61年(ワ)2050号 判決

原告

郡島恒昭

外四二名

右訴訟代理人弁護士

津留雅昭

有馬毅

川副正敏

大神周一

牟田哲朗

高森浩

美奈川成章

被告

中曽根康弘

右訴訟代理人弁護士

西迪雄

主文

一  原告らの各請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告らに対し、各金一〇万円を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因〈別紙第二〉

一 原告ら

1  別紙第一原告目録第一番から第三三番までは仏教徒であり、僧侶、門徒又は信徒である。

2  右目録第三四番から第三八番まではキリスト教徒であり、神父、牧師又は信徒である。

3  右目録第三九番から第四三番までは特定の宗教ないしは信仰を持たない者である。

4  右目録第二五番から第三三番まで、並びに第四二番、第四三番は戦没者遺族である。

二  内閣総理大臣の靖国神社公式参拝

一九八五年八月一四日、藤波官房長官は「内閣総理大臣は靖国神社に内閣総理大臣としての資格で参拝を行なう。」と発表した。

翌八月一五日、被告は、内閣総理大臣として、公用車を使用し、藤波官房長官、増岡厚生大臣の二名を公務として随行させ、靖国神社に参拝した。

被告は拝殿で「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し、引き続き本殿に昇殿し、祭壇に向かい黙祷を捧げたのち深く一礼した。

被告は参拝の後「内閣総理大臣の資格で参拝した。いわゆる公式参拝である。」と明言した。

右参拝に当たり、被告は公費から支出した三万円を「供花料」の名目で靖国神社に納め、祭壇に「内閣総理大臣中曽根康弘」という名入りの生花一対を供えさせた。

三  靖国神社公式参拝の違憲性

1  一宗教法人たる靖国神社において、その祭神に向かい礼拝をするという行為は、紛れもなく宗教行為である。その礼拝形式が神道儀礼によらずとも、また礼拝の場所が社頭などの神社内のほかの施設であろうとも、その行為の本質に変わりはない。宗教施設への参拝や礼拝は、宗教行為の典型的な形態であり、礼拝の作法がその宗教による正当な手順を踏むかどうかは、当該行為の宗教性を希薄にしたり濃厚にするものではない。

2  被告は靖国神社について、一九六八年五月(当時運輸大臣)拓殖大学総長として「正式に参拝する場所がなければ国家ではない。」と国家護持を訴え、一九七二年三月(当時自由民主党総務会長)靖国神社法成立促進国民大会において「靖国神社を魂を持つ、神性を持つ靖国神社として護持したいというのが、私たちの信念なのであります。」と発言し、今回の公式参拝の直前の一九八五年七月二七日には、自由民主党軽井沢セミナーにおいて「国のために倒れた人に対して国民が感謝をささげる場所はある。これは当然なことである。さもなくして、だれが国に命をささげるか。」と述べるなどし、靖国神社の国家護持又は公的な認知を得るべく推進してきた。今回の公式参拝は、一宗教の教えに基づく英霊を祀る施設としての靖国神社に、国民を代表する政府の総理大臣という公的な立場で参拝したものであり、憲法二〇条三項に反する宗教行為そのものである。

3  右参拝に際し公用車を用いたことや、公費から三万円の「供花料」を支出したことは、政教分離原則を定めた憲法八九条に反する。そもそも宗教法人の経済的な基礎が、その信者からの布施・寄付・募財などによることを考えれば、その額の多寡や名称が「玉串料」であろうが「供花料」であろうが変わりはない。

4  今回の公式参拝は、一九八五年八月九日内閣官房長官に提出された閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書にいう「国民や遺族の多くが靖国神社を戦没者追悼の中心施設としている。」という見解に基づいて強行された。しかし信教の自由は人の内心、魂にかかわる問題であり、人が生まれながらにして持つ権利である。信仰においてはたとえ多数であろうとも少数を強制し得ないし、同様にどの様な宗教も信じない自由に対し、特定の信仰を強制することも許されない。ところが被告は、その内閣総理大臣という公的な立場を利用し、一宗教法人に過ぎない靖国神社における戦没者の慰霊追悼こそが、他の宗教によるものと違い正統であると認めるという大きな特権を与えた。この行為は信ずる宗教を持つ者や、何れの宗教も信じないものに対して特定宗教の教義を強制したのであり、信教の自由を保障し、いかなる宗教団体も国から特権を受けてはならないとする憲法二〇条一項に反する。

四  原告らの権利

1  原告らは全て日本国民として、憲法一三条により「個人として尊重され」、また、原告らの「生命、自由及び幸福追求に対する権利」は国政の上で最大限の尊重が必要と定められている。その具体的内容については基本的人権として憲法一四条以下に定められているとおりであるが、一九条「思想及び良心の自由」並びに二〇条「信教の自由」はあらゆる基本的人権の根幹をなすものとして絶対不可侵の権利であり、原告らはこの内心の自由を保障されることによつて初めて、各自の幸福を追求して人生をいきいきと生きることを得るのである。

2  特に「信教の自由」は近代市民社会成立の普遍的根拠であると共に、わが国においてはかつて国家神道体制下にあつて、国家によつて個人の生命が支配・管理され、基本的人権が大きく侵害されていたことへの反省から生まれた日本国憲法の基本精神でもある。この「信教の自由」には、信仰する自由、布教伝道する自由、自己の信仰に基づいて社会的実践をする自由、自己の信じない宗教を批判する自由、何も信仰しない自由などが考えられる。それらは最大限に尊重されるべきであつて、国家が特定の宗教を強制することはもとより、人の内心の自由を侵害することは決して許されない。

3  本件公式参拝に至るまで、原告らは各自の信ずる宗教に基づき、また特定の宗教又は信仰を持たない者として、①一九四五年八月一五日に敗戦によつて終結した戦争について、②戦争によつて殺された多くの戦争犠牲者について、③戦没者を神道教義によつて英霊として祀る靖国神社について、思考し語り行動してきたものである。何より尊重されるべき個人が国家の命令により不本意にも戦場に駆り出され、その上英霊と祀られて戦争を賛美し、次の新たな兵士を送り出す役割を担わされるという靖国信仰の強制は到底容認できなかつたのである。

4  原告らのうち浄土真宗の僧侶、門信徒は、阿弥陀如来の本願を信受し浄土に往生することを人生の究極事と選び、宗祖親鸞の教える神祇不拝の教えによつて、かつて積極的に戦争に協力してきた教団の歴史を反省しつつ、国家エゴ・民族エゴを越えたところにこそ平和の基礎があると信じてきた。僧侶の中には、かつて靖国神社国家護持法案が国会に上程された折り、抗議のためハンガーストライキを行なつたもの、著書そのほかにおいて靖国信仰英霊思想批判の文を書き、自己の信仰内容を広く訴えたもの、各寺院における説教の中で同じく靖国信仰英霊思想の批判を語つた者などがある。これらは何れも教団の基本方針に従い、浄土真宗の信心に基づく者としての行為であつた。

5  原告らのうちキリスト教の牧師、神父、信徒は、聖書の中にこそ人間の生と死と社会についての真理があると信じてきた。そしてその信仰に基づいて、かつて戦争に協力してきた教会の責任を自己反省し、かつ自己の信ずる唯一の神を蹂躪した国家神道体制、とりわけ軍事宗教施設であつた靖国神社の公的復活には反対運動を行なつてきた。

6  原告らのうち特定の宗教ないしは信仰を持たない者は、現在の自己の自由と世界の平和こそが重要な事で、そのためには個人が何よりも尊重されるべきと信ずる者であり、いかなる宗教も強制されない自由を持つ。

7  原告らのうち戦没者遺族は、今は亡き親しいものについて各自の信仰によつて静謐のうちに偲び追悼してきたのである。そしてそれは一見外面上は平穏な宗教的行為のようであるが、いわば自己の信じない靖国神社に取られていた故人を自らの信仰の内に取り返すという、内面の激しい抵抗を続けていたのである。

8  この様に原告らは、靖国信仰英霊思想を否定し拒否してきたのであるが、それらは何れも日本国民として憲法に保障された「信教の自由」の具体的内容である。

五  原告らの損害

本件公式参拝は、国の代表者たる被告の名で、靖国神社とこれを支える英霊信仰思想に公的権威を与えたものであつた。これが国民の信教の自由を侵害し、また政教分離の原則にも反する違法・違憲の行為であることは既に述べたとおりである。

被告の公式参拝により、原告らは宗教者であると否とを問わず、内心における「信教の自由」を侵害されたのである。宗教者として自己の信仰に基づいて靖国神社の思想と対峙し、布教伝道活動をしてきたものについては、その信ずる教義が公権力により否定されたことになり、その名誉を侵害され、また今後の布教活動への影響は計りきれないものがある。

一方、遺族にとつてみれば既に不本意にも靖国神社へ合祀されることで、自己の信仰によつて故人を悼む権利を奪われていたが、加えて公式参拝によつてますますその自由が大きく侵害されることとなつた。

右のとおり、被告の強行した公式参拝により原告らの被つた精神的苦痛は計り知れぬものがあり、その慰謝料としては原告各自につき一〇万円を下らない。

六  責任

1  被告は、それまでの内閣総理大臣が「私的」に靖国神社の参拝をしてきたにも拘らず、敢て、内閣総理大臣として「公式」に本件参拝をした。しかしながら、本件公式参拝は、前記のとおり憲法上禁じられていて、内閣総理大臣の職務権限に属しない行為である。

従つて、被告のした本件公式参拝は、内閣総理大臣の職務権限を逸脱した行為であつて、自己の政治的目的を達成するために、職務行為の外形を装い、公務員としての地位、権限を故意に濫用した不法行為というべきであるから、被告は、民法七〇九条により、原告らの前記損害を賠償する義務がある。

2  ところで、公務員の違法行為が認められ、国又は公共団体が国家賠償法一条により被害者に対し損害賠償責任を負う場合、被害者が当該公務員個人に対し不法行為責任を追求することができるか否かについては、同法上明文の規定はなく解釈に委ねられている。

この点について、最高裁判所第二小法廷昭和五三年一〇月二〇日判決は「国が被害者に対して賠償の責に任ずるのであつて、公務員個人はその責を負わない。」旨判示しているが、この判決は、その先例とされる最高裁判所第三小法廷昭和三〇年四月一九日判決と同じく、公務員に違法行為はなかつたとして、国について国家賠償法上の責任を否定したうえで、傍論として、公務員の個人責任について言及するものに過ぎないのであつて、右両判決は、いずれも、国に国家賠償法上の責任が認められる場合に、公務員個人にも責任を追求できるか否かについて、正面から判断を加えたものではない。また、同旨の他の判決も、公務員の違法行為の内容にまで踏み込んで判断したものではないのであつて、公務員の個人責任を否定する立場を判例上確定的なもののように考えるのは誤りである。

3  公務員に個人責任を認めない説は、①公務員個人の直接責任を認めると公務員の職務執行を萎縮させてしまうこと②国又は公共団体が責任を負うので被害の救済は十分であること等をその根拠とする。

しかしながら、民法では、不法行為をした機関個人又は被用者自身の被害者に対する直接責任を認めているのに、公務員に限つて異なつた取扱をするのは官尊民卑の考え方であつて、法の下の平等を保障した憲法一四条に反するし、公務員の違法行為(特に、故意又は重過失に基づくもの)はむしろ「萎縮」させるべきが当然である。

また、加害公務員に対する責任追求は、公務員に対する国民の監督的作用にとつて極めて有効な手段であり、公務員が国民の権利を侵害する場合(特に故意又は重過失による場合)にすら直接責任の追求を認めないのであれば、経済的充足だけでは満たされない国民の権利感情を著しく阻害することとなる。

他方、国家賠償法一条二項が民法七一五条と異なり加害公務員が軽過失である場合求償権の行使を制限していることをも考慮すれば、少なくとも、加害公務員の故意又は重過失による違法行為の場合には、公務員個人に対する直接責任の追求が可能であると解して、何ら差支えないし、この場合にまで公務員の個人責任を否定する根拠は極めて薄弱であるといえる。

4  ちなみに、公務員に個人責任を認めない立場では、公務員が故意に職権を濫用して不法行為をした場合に特に不都合を生ずる。

即ち、公務員が職務の執行に藉口して、故意に越権行為をし、或いは私心を満足するための報復行為等をして、そのため私人に損害を加えた場合であれば、これは、本質的には、公務員の個人的な不法行為であつて、公務員個人が民法七〇九条により不法行為責任を負担すべきは当然のことである。この場合に国家賠償法の適用を受けるから公務員個人の責任の追求ができないというのであれば、明らかな個人的不法行為に対し、直接責任追求の道が閉ざされることになり、国民の裁判を受ける権利を保障した憲法三二条に違反し、その不都合は明白である。

七  結語

よつて、原告らは、被告に対し、前記不法行為に基づく慰謝料として各一〇万円の支払を求める。

二 請求原因に対する認否及び主張〈別紙第三〉

一 請求原因一(原告ら)について

いずれも不知。

二 請求原因二(内閣総理大臣の靖国神社公式参拝)について

昭和六〇年八月一四日、政府が、藤波内閣官房長官談話により、内閣総理大臣は靖国神社に内閣総理大臣としての資格で参拝を行なう旨発表したこと、同月一五日、内閣総理大臣たる被告が、藤波内閣官房長官、増岡厚生大臣とともに公用車で靖国神社に赴き、拝殿において、「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し、本殿において、黙祷の上深く一礼をしたこと、その際、「内閣総理大臣中曽根康弘」と表示した生花一対を本殿に配置し、右供花の代金として国費から三万円を支出したこと(なお、右三万円は、いわゆる玉串料ではない。)、右参拝の後、被告が原告ら主張のとおりの発言をしたことは、いずれも認めるが、その余は否認する。

三 請求原因三(靖国神社公式参拝の違憲性)について

1は争う。

2のうち、被告が、昭和四三年五月拓殖大学総長就任中において、同四七年三月靖国神社法成立促進国民大会において、同六〇年七月二七日自由民主党軽井沢セミナーにおいて、それぞれ講演したことは認めるが、その余は争う。

3は争う。

4のうち、昭和六〇年八月九日、藤波内閣官房長官に対し、「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」から報告書が提出されたこと、同報告書において原告ら主張の趣旨の見解が表明されていることは認めるが、その余は争う。

四 請求原因四(原告らの権利)について

争う。

五 請求原因五(原告らの損害)について

争う。

六 請求原因六(責任)について

争う。

七 被告個人としての損害賠償責任の不存在

原告らは、国に対しては、被告の本件公式参拝が国家賠償法一条一項所定の要件に該当するとして、右条項に基づく損害賠償を請求するとともに、被告個人に対し、本件公式参拝は民法七〇九条の不法行為に該当するとして、同条による損害賠償を請求している。

しかし、公権力の行使に当たる公務員の職務行為に基づく損害については、国又は公共団体が賠償の責に任じ、職務の執行に当たつた公務員は、行政機関としての地位においても、個人としても、被害者に対しその賠償責任を負うものではなく、このことは、既に確立した判例となつているところである(最高裁昭和三〇年四月一九日第三小法廷判決・民集九巻五号五三四頁、最高裁昭和四七年三月二一日第三小法廷判決・判例集民事一〇五号三〇九頁、最高裁昭和五二年一〇月二五日第三小法廷判決・判例タイムズ三五五号二六〇頁、最高裁昭和五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁ほか)。

従つて、被告の本件公式参拝に関し国について国家賠償法一条に基づく損害賠償責任ありとしながら、被告個人についても損害賠償責任があるとする原告らの請求は、主張自体失当というべきである。

理由

一原告らの本訴請求は、被告が内閣総理大臣として憲法上禁じられている靖国神社への公式参拝を敢行したのは、内閣総理大臣の職務権限を逸脱した行為であつて、職務行為の外形を装い公務員としての地位、権限を故意に濫用した不法行為であるとして、被告に対し、民法七〇九条に基づき損害賠償を求めているものである。

しかしながら、公務員がその職務を行なうにつき(その行為が客観的に職務執行の外形をそなえていれば足りる)、故意又は過失により違法に他人に損害を与えた場合には、国又は公共団体が被害者に対しその損害賠償責任を負担し、当該公務員個人は右損害賠償責任を負担しないと解すべきことは、既に、最高裁判所の確立した判例となつているところといわなければならない(昭和三〇年四月一九日第三小法廷判決・民集九巻五号五三四頁、昭和四〇年三月五日第二小法廷判決・裁判集民事七八号一九頁、昭和四〇年九月二八日第三小法廷判決・裁判集民事八〇号五五三頁、昭和四六年九月三日第二小法廷判決・裁判集民事一〇三号四九一頁、昭和四七年三月二一日第三小法廷判決・裁判集民事一〇五号三〇九頁、昭和五二年一〇月二五日第三小法廷判決・裁判集民事一二二号八七頁、昭和五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁等)。そうである以上、審級制の訴訟制度の下においては、最高裁判所の有する判例統一機能及び法的安定性の観点からして、下級裁判所としては、最高裁判所の判例の趣旨に明らかに不合理な点があるなど特段の理由がない限り、右判例を尊重し、これに従うべき義務があることはいうまでもない。

二原告らは、右のような公務員の個人責任否定説は、国民の法の下の平等を保障した憲法一四条及び裁判を受ける権利を保障した憲法三二条に違反するとか、国民の公務員に対する監督的作用を弱めるなどと主張する。

しかしながら、国家賠償法一条一項と民法四四条一項、七一五条一項とは条文の趣旨・表現を異にしているから、右国家賠償法の規定を民法の規定と同様に解釈しなければならないものではなく、また、国家賠償を含め近代民事法の規定する損害賠償制度は、本来、損害を受けた者に財産的な救済を与えることを目的とするものであつて、加害者に対する制裁を目的とするものではないから、国家賠償法により十分な財産的な救済が期待できる以上、損害賠償請求の目的は達せられたものというべきであり、被害者から加害公務員個人に対し損害賠償請求をすることができないからといつて、憲法一四条、三二条違反の問題を生ずるものではない。更に、国民の公務員に対する監督的作用の面においても、公務員の違法行為を理由として、被害者が国又は公共団体に対し損害賠償責任を追求した結果如何によつては、国又は公共団体が当該公務員に求償することができるし、また懲戒処分や刑事処分も可能であることなど、右の監督的作用を果たし得る制度が存在していることを顧慮すれば、当該公務員に被害者に対する直接の損害賠償責任を認めなくても必ずしも不当とはいい難い。

その他、前記確定した判例を不当なものとして排斥すべき特段の理由を見出すことはできない。

三そうすると、原告らの被告に対する民法七〇九条に基づく本件損害賠償請求は、いずれも主張自体失当であることに帰するからこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官谷水 央 裁判官照屋常信 裁判官髙橋亮介)

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